古橋紀子さんは、一世を風靡(ふうび)した豊橋市出身、在住のフラメンコダンサーだ。タカラジェンヌからスペインへの留学、国内での興行、後進の育成と、長年にわたり活躍し、さまざまなメディアに登場してきた。だが、新型コロナウイルス禍もあってここ数年、その動静が伝えられていない。改めて市内でインタビューし、半生を語ってもらった。
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終戦直後の混沌とした時代の中、踊り一筋の幼少期を踏み出した。
きっかけは、東京から帰郷した叔母が地元でクラシックバレエ教室を開いたことだった。募集をかけても生徒が集まらない。そこで最初の生徒として白羽の矢を立てられた。市公会堂のステージに立つ愛らしい少女は、人々の注目を集めた。
県立豊橋東高校に進学した。ところがわずか1年で高校を中退し、宝塚音楽学校に入学する。
「勉強が好きじゃなかった。親戚もみんな頭のいい人ばかりだったので『踊りばかりやって』とばかにされていた。それで母に勧められて受験したら合格したんです」と話す。
地元の豊橋の名にちなんで「豊みのる」という芸名を授かり、月組の男役としてキャリアをスタートさせた。十代半ばで親元を離れ、寮生活を始めた。慣れない一人暮らしに毎晩のように涙を流した。
しかし、天性の才はすぐに開花する。本科生の時には早くも頭角を現し、東宝映画「狸御殿」に抜てきされ、美空ひばりや雪村いづみといった昭和の大スターらと共演を果たす。さらに榎本健一からもその愛らしさを気に入られ、養女にしたいと言わしめたという。
しかし、宝塚での日々は華やかな光ばかりではなかった。初舞台となった「春の踊り 花の中の子供たち」。端役で花道のところにいたが、先輩が舞台装置に巻き込まれて死亡する事故を目の当たりにした。
男役として順調にスターの階段を上り、パリ公演のメンバーにも選ばれたが、ある運命的な出会いが進むべき道を大きく変える。
日本舞踊の師であり、スパニッシュダンスの草分けでもあった川上鈴子に連れられて見た長嶺ヤス子の大阪公演。そこで繰り広げられたのは、汗を滴らせ、魂をむき出しにして踊る、野性味あふれる本物のフラメンコだった。宝塚の整えられた美の世界とはあまりにもかけ離れた圧倒的なエネルギーがあった。
「これを、私がやりたい」。その瞬間、新たなる情熱の炎が激しく燃え上がった。
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1967年三重県生まれ。名古屋大学卒業後、毎日新聞社入社。編集デスク、学生新聞編集長を経て2020年退社。同年東愛知新聞入社、こよなく猫を愛し、地域猫活動の普及のための記事を数多く手掛ける。他に先の大戦に詳しい。遠距離通勤中。
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