フラメンコダンサー、長嶺ヤス子の舞台に衝撃を受けた。フラメンコの真髄を極めるためには、本場スペインの空気を吸い、その土を踏むしかないと確信した。しかし、当時の日本は海外渡航が極めて困難で、1㌦360円の固定相場制の時代。何よりも、現役のタカラジェンヌが在籍したまま海外へ留学することなど、前代未聞だった。
それでも決意は揺るがなかった。父が背中を押してくれた。劇団の重鎮だった演出家白井鐵造をはじめ、その才能を高く評価していた演出家たちの尽力により、劇団史上初となる「在籍のままのスペイン留学」が特例として認められた。
当時、フランコ独裁政権の緊張感が漂うマドリードに住んだ。インターネットも国際電話も普及していない時代、言葉も十分に話せないまま、未亡人の家庭が営むマンションの一室に身を寄せた。内戦の影響で未亡人が多かったのだそうだ。
しかし、異郷の地での心細さを忘れるほど、現地のレッスンは過酷を極めた。毎日4時間から5時間、指導者と1対1で向き合う稽古に身を投じた。宝塚で培った覚えの早さは現地でも称賛されたが、本場のリズムと精神は一朝一夕に身につくものではなかった。
マドリードでの徹底的な稽古は、単なる技術の習得にとどまらなかった。踊りに対する観念も変えていった。2年間、一時帰国を挟まない密度の濃い留学生活。日本大使館の支援や現地の人々との温かい交流にも支えられながら、フラメンコに強固な背骨を与えた。
だが、帰国後に待っていたのは、冷酷な現実だった。それまでの男役から女役へ転身した。髪を長く伸ばして帰国した「豊みのる」の姿に、かつて熱狂した女性ファンは冷淡だった。人気の絶頂期に日本を離れ、戻ってきたときには支持基盤が失われていた。その落差は劇的だった。
「未練はなかった」と言う。すでに宝塚の枠に収まりきらない本物のフラメンコへと昇華していたからだ。
退団公演となった白井演出の「テ・キエロ」。自ら振り付けを担当し、長い裾を持つ伝統衣装「バタ・デ・コーラ」を翻して舞台の中央に立った。
ソロの踊り手として、観客の視線を一瞬とも逸らさせてはいけない。舞台袖に消えるその瞬間まで、すべての目をくぎ付けにするという強烈なプロの誇り。過酷な修練を経て得た揺るぎない自信を胸に、華麗なる歌劇の世界に別れを告げ、一人の独立したフラメンコダンサーとして歩み始めた
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1967年三重県生まれ。名古屋大学卒業後、毎日新聞社入社。編集デスク、学生新聞編集長を経て2020年退社。同年東愛知新聞入社、こよなく猫を愛し、地域猫活動の普及のための記事を数多く手掛ける。他に先の大戦に詳しい。遠距離通勤中。
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