間もなく終戦から78年を迎える。新城市豊栄の杉本幾代さん(81)の父は1945年7月20日、フィリピンのホロ島の戦いで戦死した。取材に応じ「8月15日には、みんなで参拝する機会を設けて、後世に語り継いでほしい」と語る。
父は松本吉三郎さん。大阪府南河内郡志紀村(現八尾市)に家があり、杉本さんはここで生まれた。吉三郎さんは製材所に勤めていた。終戦時3歳の杉本さんにその記憶はほとんど無い。ただ、帰省した際に部屋の中にホタルを放って遊んでくれたことをおぼろげに覚えている。
最期の様子を知りたいと、同じ部隊だった人を訪ねて回った結果、銃撃を受けて貫通銃創を負い、倒れたという。最終階級は陸軍伍長。
戦死の公報が届き、母は間もなく再婚した。死にものぐるいで働く母を見て、米軍を憎んだという。
1956年11月、大阪府遺族連盟遺児代表の一人として、靖国神社に参拝した。「これからの日本は、わが国のために真剣に戦った父たちの築いた土台の上に、ただ平和国家平和社会建設を目指し、歩んでほしいです」と語った。
1962年に結婚し、夫の転勤に伴って69年に豊橋市へ。75年に新城市の社宅に移った。
2人の娘がおり、現在は長女の家族と同居する。夫とは5回、幸田町の三ケ根山の比島観音を参拝した。アジサイを愛でる季節だった。その夫も2014年に亡くなった。
母の遺品を整理していると、父が中国戦線から送った手紙と押し花があった。今も手元に残している。
父の墓は八尾にある。ほかの多くの戦死者同様、遺骨はない。同級生が世話を続けているが、遺族が高齢化して参拝する人も少ない。
杉本さんは「戦争の起こらない平和国家が永久に続くことを祈り、次世代に語りつなげたい」と書く。仲間との「唄サロン」で「里の秋」を歌うと、父が今でも帰ってきそうな気がする、という。
3句を詠んだ。
蛍火に 微かな記憶 父のこと
遺骨なき 墓前洗うや 蝉時雨
燃へ盛る ハイビスカスの 反戦歌
【安藤聡】
靖国神社を参拝した杉本さん(前列右から2人目)
父からの手紙と押し花