江戸時代、地域の結束を象徴する民間信仰として爆発的に広まった「庚申講(こうしんこう)」。東三河でも各地にあったが、生活習慣の変化とともに姿を消しつつある。10日、豊川市の「北金屋庚申講大黨組」の最後の集まりが開かれた。
ろうそく台を収める木の箱の筆書きによると、少なくとも1727(享保12)年には講があったことが確認できる。来年を迎えると300年の歴史となるところだった。
講の一員で、曽祖父の代から入っているという川村明弘さんによると、昔の大黨組の講には50~70人の人が来ていた。所属は30世帯前後で事実上の世襲制だ。60日に一度巡ってくる「庚申(かのえさる)」の夜、男性だけが集まって、酒を酌み交わしながら一晩中語り合ったという。会場は輪番で講の一員の家になる。「午後4時頃に身を清め、午後6時頃から集まって、大人の社交場として情報交換などをしていたようです」と語る。かつては賄いも会場担当の家が担っていたが、やがて日中に仕出し弁当を取るようになり、さらに料理店での開催に変容していった。
庚申信仰の根底には、人間の体内にすむとされる「三尸(さんし)」という虫の伝承がある。庚申の夜、眠った人間の体から三尸が抜け出し、天帝にその人の悪行を報告し、寿命を縮めさせる。人々はそうさせないよう、一晩中寝ずに過ごす。この「徹夜」がやがて信仰を越え、村落共同体の娯楽や情報交換の場へと性質を変えていった。
17~19世紀の全盛期には、講の結成を記念して「庚申塔」と呼ばれる石碑が盛んに建立された。現在も県内の旧街道や寺社の境内に多く残るこれらの石塔には、本尊の青面金剛の姿や、三尸の告げ口を封じる象徴としての「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿が刻まれている。
この日、豊川市中央通4の懐石料理店「魚中」で正午前に始まった講には、7人が参加した。最高齢は中尾恒幸さん(91)と中尾寛さん(91)。寛さんは「5歳の頃から父に連れられて講に出ていた」と話した。「消えるまで帰れない」という長い線香に火を付け、ろうそくをともし、般若心経などを唱えた。参加者は寛さんによる乾杯の発声で始まった会食を続け、2時間にわたって戦後の街の変遷などの昔話に花を咲かせた。
大黨組には、この日も使った仏具や青面金剛の掛け軸が残る。22日に全員で奈良県を訪ねてお精抜きをしてもらい、300年の活動を終える。
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1967年三重県生まれ。名古屋大学卒業後、毎日新聞社入社。編集デスク、学生新聞編集長を経て2020年退社。同年東愛知新聞入社、こよなく猫を愛し、地域猫活動の普及のための記事を数多く手掛ける。他に先の大戦に詳しい。遠距離通勤中。
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