豊橋で講演会「神野新田120年の物語」

2017/03/13 00:01(公開)
神野新田の調査について報告した講演会=穂の国とよはし芸術劇場で
 豊橋市西部に広がる神野新田に関わる講演会「神野新田120年の物語」が12日、同市の穂の国とよはし芸術劇場プラット研修室で開かれた。市民グループのメンバーらが新田開発の歴史のほか、記録にない完成当初の人々の暮らしなど調査の成果を報告するとともに、伝承の必要性を訴えた。
 神野新田は1896(明治29)年に完成し、昨年で120年を迎えた。干拓当初の面影が消えつつある上、当時を知る人も少なくなっているため、節目に合わせ市民グループ「神野新田研究会」が調査、記録する活動を進めていた。
 この日は、愛知大学東亜同文書院大学記念センター職員の森健一会長が新田開発のいきさつを報告。県立豊川工業高校教諭の森猛さんが入植者、同大非常勤講師の高木秀和副会長らが暮らしなどを話した。
 明治時代、山口県出身の当時の知事と同郷で新田開発を手掛けていた毛利祥久が新田づくりを始め、失敗を繰り返しつつ、4回目に成功した。だが、濃尾地震や台風による高潮で海を囲んだ堤防が壊れ、新田を売り出した。
 名古屋の実業家だった神野金之助が購入し、1893(明治26)年、干拓に着手。毛利が新城市内から引いた牟呂用水の水を使ったほか、1・8㍍高い7・2㍍の高さ、波を打ち返すための角度にするなど堤防の強化などをして3年後に完工を迎えた。
 聞き取り調査によると、神野新田に入植したのは、伊勢など三重県からの人が多いが「入植2世の人から聞いており、正確な経緯は分からない」と報告。
 今は米どころで知られる神野新田だが、土地は塩分を含んだ砂地でやせていた。苗を植えても駄目になってしまい、当時、豊橋に置かれた軍隊と交渉、手に入れた馬糞(ふん)などで肥やし、ようやく米が作れるようになった苦労があったという。
 昭和初期、米の収量はは4~5俵。畑で甘藷(かんしょ)、里芋などを作り、冬はノリが収入源だった。
 また、馬糞に感謝し、入植者が軍隊のあった現在の愛知大付近に桜の木を植樹、豊川、新城の桜並木と並んで桜の名所で知られていた。
 調査は、神野教育財団(豊橋市)の本年度教育・文化活動助成事業に採択され、助成金を受けながら進められた。発表のほか、今後冊子にもまとめる予定だが、研究会では身近な歴史でもあり、子どもらに伝えていく必要性も呼び掛けた。
(中村晋也)
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