豊橋は養鰻場発祥の地。そこでJR東海の旅の担当者から声がかかった。愛知の味ひつまぶしの提案である。そこで「羽子吾(はねご)」では、このJR東海スマートEXプラントして、会員向けに「ひつまぶし特別調理プラン」を作った。
新鮮な生け鰻(うなぎ)を客が自分用に選び、それをさばき、調理して提供する。命を頂戴する日本の職として、鰻を板前の腕でじっくり味わうJR東海の旅パックである。四代目の現社長八木啓至が2023年に代替わりしたときに、何かを新しいものを取り入れたいという思いと一致した企画となった。これは宿泊無しの特別調理プランだけでも申し込める。
啓至が寿司(すし)すしと鰻の店として定着していた羽子吾を26歳で継いでから、料理の提供にも工夫を重ねた。三河湾も含め目利きした鮮魚で寿司の味に磨きをかけた。また寿司と鰻の両方を一つの膳で食べたいという声が聞こえてくると、そのセットメニューを作ったり、女性向けメニューや寿司ランチを作ったりした。愛知といえばひつまぶしを期待してくる客のために、茶漬け有りと無しの2種類の膳も作った。
その四代目を陰で支えているのが三代目基光である。基光は寡黙である。実直に寿司を握ってきた。二代目房治が県寿司商生活衛生同業組合の豊橋支部長になって外に出ると、店の一切を取り仕切った。そして房治は3期にわたり支部長を務め、厚生労働省や県の表彰を受けた。同様に基光も3期支部長を務めている。
初代は八木丈治という。1899(明治32)年生まれの田原出身。小学校を出て、住み込みで食堂で働いていた。丈治の妻つるは、その食堂の隣の酒屋で働いていた兄を頼って三重県から出てきた。丈治は1921(大正10)年に豊橋市松葉町の家を買い、独立を目指した。23年に二人は入籍し、羽子吾の大元となる「三浦屋」を開店した。その時に生まれた子どもが二代目房治である。
三浦屋は資金の無い中、丼一つで商売を始めた。メニューはうどんと丼物。一度に食事を提供できるのは一人の客のみ。それでも少しずつ固定客が増えて、次の器を買い足し買い足ししていった。このときの松葉町の店は吉田駅(現豊橋駅)や花街に近く、地元客の他に旅人や芸子がよく利用した。芸子たちは幼い房治をかわいがってくれた。やがて店が繁盛してきて、今の大橋通一丁目に移転した。
ところが戦火が激しくなり、二代目房春治は出征した。1945年6月の豊橋空襲を受け、店は丸焼けとなったのである。丈治とつるが焼け跡に戻ってみると、偶然そこに返し(たれ)のつぼが半分土に埋まって残っていた。おかげで、同じ場所に店を再建することができた。房治も無事に戻ってきて、二代目として店を継いだ。
当時、進駐軍の日本人への統制が厳しかった。そこで店の名前を中国風の杏花村と変えてみた。すると仕入れがしやすくなったのである。うどんの他にも寿司も鰻も手がけた。やがて房治はお見合いをして、妻に千枝を迎えた。千枝は店の他に自分の子ども、義弟や両親の面倒も見た。この時代の長男の嫁の苦労は計りしれず。千枝はその苦しさから信仰深くなり、家内も真面目に切り盛りして、繁盛するようになった。
そこで房治は店を4階建てへと建て増しし、今の形に整えたのである。1964年の東京オリンピックにちなんで、大きく「羽ばたく子年(ねどし)の自分」という意味の「羽子吾」とした。
房治の料理人魂は、四代目の啓至に基光を通じて引き継がれ、鰻料理に力を入れた。寿司も鰻も堪能でき、年季の入った味は、東日本西日本両方の客を満足させている。
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