【戦後80年連載】東三河の証言㊥「戦争は人殺しだ」|豊橋の村田修一さん

2025/08/16 00:00(公開)
「戦争は人殺しだ」と話す村田さん

 「焼夷(しょうい)弾が空で弾けるのがきれいだった」。1945年6月20日、当時8歳の村田修一さん(87)は、夜明け前の田んぼ道からその光景を見上げていた。空から落ちてくる光がパッと開き、火の粉が降り注ぐ。子ども心にそう感じたが、それは豊橋の市街地を焼き尽くす炎だった。

 

 村田さんは豊橋市立羽根井小学校に通う国民学校初等科2年生。当時は母、おば、祖父、妹ら6人で暮らしていた。その日は、寝室で寝ていると空襲警報が鳴り響いた。母から防空壕へ逃げるよう声がかかった。水に濡れた防空頭巾をかぶり、叔母に連れられて牟呂八幡方面へ走った。中心街の大通りを進む途中、馬が駆け回っていた。逃げる人の列は途切れず、乳母車を押す人の姿もあった。牟呂八幡宮に着いてすぐ「スパイがおるぞ」という声が聞こえた。「ここも危険だ」と判断し、神野新田町の方に逃げた。

 

 田んぼ伝いにあぜ道を走った。着いたのは現在のホテルシーパレスリゾート周辺。当時は海水浴場だった。ここで目撃したのは、市街地に焼夷弾を落ちて「ピカッ」と花火のように火の粉が散る光景だ。「不謹慎だが、子どもながらになんてきれいなんだと思った」と回想する。火の手が収まり牟呂八幡宮に行くと、むしろがかぶせられた死体がいたるところにあった。市街地は焼け野原となり、自宅も燃えて跡形もなくなっていた。数週間奥三河に疎開した後、自宅に戻って掘っ建て小屋を建てて寝泊まりした。

 

 戦後、村田さんは羽田中学校、時習館高校、立命館大学を経て信用金庫に勤めた。約20年前から、立命館大同窓会の活動で豊川工廠(こうしょう)空襲の犠牲者を悼む石碑の清掃活動に参加している。工廠に動員されていた学生が大勢亡くなっているためだ。さらに一昨年には戦争の記憶を残すため、時習館高校の同級生有志で戦争体験集を作った。小学校や図書館での出前授業で語り部をすることもある。

 

 授業で子どもたちに必ず投げ掛ける言葉がある。「もし自宅が一瞬でなくなったら、父母が亡くなったら、どう思うか」。現実味を持てずに首をかしげる。それでも村田さんは、自ら体験した空襲の記憶を語り続ける。「体験したことがないから戸惑うのは当然だ。だが、戦争は人殺しだ。なぜ戦争をするのか」と伝え続ける。

焼け野原となった札木地区(提供)
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北川壱暉

 1998年浜松市生まれ。昔からの夢だった新聞記者の夢を叶えるために、2023年に入社した。同年からスポーツと警察を担当。最近は高校野球で泥だらけの球児を追いかけている。雨森たきびさん(作家)や佐野妙さん(漫画家)らを取り上げた「東三河のサブカルチャー」の連載を企画した。読者の皆さんがあっと驚くような記事を書けるように日々奮闘している。趣味はプロ野球観戦で大の中日ファン。

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