「焼夷(しょうい)弾が空で弾けるのがきれいだった」。1945年6月20日、当時8歳の村田修一さん(87)は、夜明け前の田んぼ道からその光景を見上げていた。空から落ちてくる光がパッと開き、火の粉が降り注ぐ。子ども心にそう感じたが、それは豊橋の市街地を焼き尽くす炎だった。
村田さんは豊橋市立羽根井小学校に通う国民学校初等科2年生。当時は母、おば、祖父、妹ら6人で暮らしていた。その日は、寝室で寝ていると空襲警報が鳴り響いた。母から防空壕へ逃げるよう声がかかった。水に濡れた防空頭巾をかぶり、叔母に連れられて牟呂八幡方面へ走った。中心街の大通りを進む途中、馬が駆け回っていた。逃げる人の列は途切れず、乳母車を押す人の姿もあった。牟呂八幡宮に着いてすぐ「スパイがおるぞ」という声が聞こえた。「ここも危険だ」と判断し、神野新田町の方に逃げた。
田んぼ伝いにあぜ道を走った。着いたのは現在のホテルシーパレスリゾート周辺。当時は海水浴場だった。ここで目撃したのは、市街地に焼夷弾を落ちて「ピカッ」と花火のように火の粉が散る光景だ。「不謹慎だが、子どもながらになんてきれいなんだと思った」と回想する。火の手が収まり牟呂八幡宮に行くと、むしろがかぶせられた死体がいたるところにあった。市街地は焼け野原となり、自宅も燃えて跡形もなくなっていた。数週間奥三河に疎開した後、自宅に戻って掘っ建て小屋を建てて寝泊まりした。
戦後、村田さんは羽田中学校、時習館高校、立命館大学を経て信用金庫に勤めた。約20年前から、立命館大同窓会の活動で豊川工廠(こうしょう)空襲の犠牲者を悼む石碑の清掃活動に参加している。工廠に動員されていた学生が大勢亡くなっているためだ。さらに一昨年には戦争の記憶を残すため、時習館高校の同級生有志で戦争体験集を作った。小学校や図書館での出前授業で語り部をすることもある。
授業で子どもたちに必ず投げ掛ける言葉がある。「もし自宅が一瞬でなくなったら、父母が亡くなったら、どう思うか」。現実味を持てずに首をかしげる。それでも村田さんは、自ら体験した空襲の記憶を語り続ける。「体験したことがないから戸惑うのは当然だ。だが、戦争は人殺しだ。なぜ戦争をするのか」と伝え続ける。
購読残数: / 本
1998年浜松市生まれ。昔からの夢だった新聞記者の夢を叶えるために、2023年に入社した。同年からスポーツと警察を担当。最近は高校野球で泥だらけの球児を追いかけている。雨森たきびさん(作家)や佐野妙さん(漫画家)らを取り上げた「東三河のサブカルチャー」の連載を企画した。読者の皆さんがあっと驚くような記事を書けるように日々奮闘している。趣味はプロ野球観戦で大の中日ファン。
週間ランキング
蒲郡ホテル、中国人観光客キャンセル報道後に中傷の電話多数 竹内社長「仕事どころではない」 【マケイン】八奈見さんお誕生日おめでとう 舞台の豊橋がお祝いムード 同人誌イベント「負けケット」も 田原市が「屋台村」の社会実験へ 来春から1年間事業者募る 空き地活用で駅周辺のにぎわい確保へ 歴史に名を刻んだ豊橋中央 ヨゴスポーツ余語充さん、今年の県内高校野球を回顧 豊橋のエクスラージ、3年連続で愛知県の人権啓発ポスターに 仕掛けは「逆さ絵」で「きづくとかわる」 田口高校で集団暴行事件被害者遺族の一井さん講演 豊橋市制120周年記念ロゴマーク決定 「右手と左手の上下が逆では?」の声も 【マケイン】蒲郡市竹島水族館と初コラボ 作中に登場する水槽解説、特別グッズ販売も 12月20日から 東海漬物、新社長に大羽儀周氏 組織の基盤固め最優先に 【のんほい×三遠】佐々木選手はパタスザル、根本選手はサーバル、ヌワバ選手はライオン・・・その理由は日付で探す