カク一ののれんをくぐると、カウンターに20代の女性客、奥の座敷にはサラリーマンの40代グループ、2階では宴会のようで、見習い中のおいの海斗が何度も階段を上って料理を運んでいる。
料理の注文は刺し身が多い。現大将の三浦敬次郎が毎朝魚市場に行っては、自分の目で一つひとつ確かめて仕入れているからだ。日本酒も取りそろえて季節に合わせて品書きを書き換える。その品書きは我流である。とはいえ、その絵心のある料理スケッチと気取らない毛筆の品書きを見ると、食欲をそそられてしまう。
店は年季が入っている。大豊商店街に店を構えて46年目となる。先代である父一(はじめ)から「小さい店は、自分の体をどれだけ痛めるか(働くこと)が大事だ」と言われたことを心に刻んでいる。だから、現大将の敬次郎にとっては身の丈に合った経営をし、自らが精いっぱい働くことを信条とする。客の少ないときには夫婦二人、もしくは自分一人で切り盛りし、予約が入って客の人数の見当がつくとアルバイトのシフトを決める。
バブルの時でもリーマンショックの時でもあまり影響はなく、なじみ客が訪れてコンスタントに売り上げがあった。ところが、新型コロナウイルス禍の始まった2020年はさすがに大打撃を受けた。世間では不要不急の外出自粛といわれて街は静まりかえったが、先代にしてみれば「外食が必要な人がいるから」と昼夜店を開けた。給付金を当てにせず休業もしないと言って営業を続けた。そのためなのか、あそこなら営業しているということで、客足が途絶えることなく営業ができた。
カク一の創業者は、豊橋の国会議員村田敬次郎の父可也である。1915(大正4)年に今の大手通に店を構えた。割烹(かっぽう)旅館だったそうだ。しかし、1945年6月19日の豊橋空襲ですべて焼けてしまい、移転した先が、花田町石塚の豊橋商工会議所の隣。その建物は空き家になっているものの現存している。後々は住まいになったが、豊橋駅そばに闇市が開かれたのが縁で、飲食店として商売を続けた。
そこに料理人としてやってきたのが三浦一だった。一は、戦時中に鮮魚商だった祖父のいた渥美町(現田原市)に疎開していた。そのときに魚をさばく腕を身につけたようだ。カク一に勤めて10年。1969(昭和44)年12月に可也の息子敬次郎が国会議員になった。当時、店の代表者ではあったが国会議員になったから続けられないと、料理人として10年間勤めていた三浦一に店を託したのである。
一も、10年間「毎度、カク一です」と名乗ってきたため、「カク一」という名前をそのまま受け継がせてもらったそうだ。
それから、1979年に大豊商店街に移転した。大豊商店街は、豊橋の戦後復興の証しでもある。空襲で焼け野原になった駅前に幾つも闇市ができたため、それらをきちんとした商店街にする移転先として、1964(昭和39)年、水上ビルの第1号の大豊ビルを建てた。駅前から多くの業者が移転開業した。卸問屋から小売店まで、菓子問屋や花火問屋が今でも有名だが、菓子問屋、飲食店、衣料品店、鮮魚・青果店などの店舗が連なった。その一角にカク一を構えたのである。
この数年は、不思議と初めて来る客であふれている。売り上げもコロナ前以上に増えている。若い人が増えた感触だそうだ。天ぷらと看板にあっても、刺し身がよく出る。大将が客を見て、年齢や人数に合わせてさばき方を変え、料理を作るため、その心遣いが客にさりげなく伝わるからかもしれない。今年の夏までは昼営業をしていたが、味の鮮度と自分の体力、アルバイトのシフトを考えて夜営業だけにしている。良い味を提供する。そのための決断である。
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