渋沢栄一が田原の企業にも関わっていた

2021/02/22 00:00(公開)
渋沢栄一が支援した頃に田原市にあったセメント工場の「耐火煉瓦の徳利窯」(提供)
大河ドラマ「青天を衝け」の主人公

 NHK大河ドラマ「青天を衝け」の放送が始まり、主人公の渋沢栄一に注目が集まっている。生涯に約500の企業の育成に携わった人物で、田原市にもかつて渋沢が関わったセメント企業があった。
 この会社は「遠山の金さん」で知られる遠山金四郎の孫で、窯業を学んだ斎藤実堯(さねたか)が1882年に創業したセメント製造「東洋組セメント工場」を始祖とする。蔵王山一帯で良質な石灰石が豊富に採掘できたため、田原で創業した。
 東洋組はその後、実業家の水谷孫左衛門が事業を拡張し、88年に「三河セメント会社」に社名を変更した。しかし経営難となり、第一銀行四日市支店の担保となった。
 そこで渋沢が登場する。渋沢は当時、第一銀行の頭取を務めていたこともあり、91年に三河セメントが抱えていた借金5万5000円を私財で返済した。現在の価値に換算すると約11億円という。
 渋沢は実質オーナーになったが、自分の名前を表に出さず、坂本柳左を名義人にして、工場経営は渋沢が関わっていた浅野セメントに委託した。その後も支援を続け、後に「三河に過ぎたるものは内海だ」と評判になった内海三貞を支配人として工場に送り込んだ。
 渋沢の支援もあって会社は立ち直り、95年に名古屋の有力事業家5人に経営権を譲り渡した。わずか4年で借金の返済にも窮した企業を再生させた。
 その後、会社は1943年に小野田セメントと合併。昭和30年代には田原の主力企業に成長する。雇用はもちろん、地方自治体の財政にも貢献した。しかしセメント需要が減少し、平成に入り工場は閉鎖となった。
 田原のセメント会社の変遷を紹介する「田原セメント産業会館」が、田原市田原町の田原物産センター内にある。工場の写真、使っていたトロッコなどの設備が展示されており、創業時からの様子が分かる。
 田原のセメント会社にも関わったセンター社長の原薗義秀さんは「ドラマ放送を機に、多くの皆さんに田原にも渋沢が経営に関わった企業があったことを知ってもらいたい」と話す。開館時間は午前9時から午後5時、日曜定休。問い合わせは田原物産センター(0531・36・5188)へ。
【竹下貴信】
原薗社長と工場で使われていたトロッコなどの設備=田原セメント産業会館で
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