豊橋市の「伊勢路」本店の堀さん逝く。店再開へ

2024/12/28 00:00(公開)
創業当時。店の前に立つ堀さん(提供)

 パリッとした白いシャツ、黒い蝶(ちょう)ネクタイに革靴を履き、エプロンを着ける。豊橋市駅前大通1のお好み焼き「伊勢路」本店で代表を務めていた堀米治さんの仕事服だ。仕事に奉仕活動にとまい進したが11月16日、病気のため83歳で他界した。長女の樋渡喜久代さん、残されたスタッフらで故人の遺志をつぎ、店を再開させた。来年1月3日は堀さんの四十九日。今月28日には家族で法要を営む。

 1941年生まれ、三重県出身。55年前に水上ビルに店を開いた。当時は駄菓子店などでもお好み焼きを出す時代。「『ワンランク上のお好み焼き店にしたい』と。白シャツに蝶ネクタイのこだわりもそこからです。病気で足が痛くてもスニーカーやサンダルは履かず、革靴で頑張っていました」と樋渡さんは振り返る。政財界、警察関係者、奉仕団体、公演に来た俳優陣…多くの人が熱々のお好み焼きや焼きそばに舌鼓を打った。2人の娘、3人の孫にも恵まれた。

 昨夏から体調を崩し、病気の発覚は今年6月。2カ月入院し、9月から11月までは自宅に戻って家族で穏やかな時間を過ごし、思い出を作って送り出したという。「医者になった孫が少しでも痛みを緩和して過ごせるよういろいろと骨を折ってくれた。医療関係者、ヘルパーさん、常連さん、多くの人が力を貸してくれた。ボランティアに力を注いできた父を見てくださった方々に、大変になった時に手を差し伸べていただいた」と樋渡さんは感謝する。

 堀さんといえば「ボランティア」。開店当時、来店した親子が1枚のお好み焼きを分け合って食べていた姿に胸を打たれ、翌年から東三河の児童施設や障害者施設の利用者を昼食に招待を始めた。今は無き広小路店や親戚の西駅店、現在協力を続ける三ノ輪店、独立した豊川市の「いなほや」とともに欠かすことなく続けてきた。

  豊橋若草育成園の山田吉勝園長は長年招待を受けてきた。「私が招待を経験したのは38年前の21歳の時。豊橋ゆたか学園に勤務していた頃、子どもたちとのれんをくぐりました。名古屋出身の自分は初めて『伊勢路の味』を知りました。以来、毎年施設の利用者や子どもたちがご招待いただきました。施設生活が長い子どもは15年間、毎年3月に招待いただき、卒園後も園に帰ってくるとお店に食べに行くことも少なくありません。熱々できたての焼きそばとお好み焼きをおなかいっぱいになるまで食べさせていただいたことが、子どもたちにとって『思い出の味・豊橋の味』の一つになっているからです。伊勢路の味は、子どもたちの記憶にいつまでも残り続けます。長きにわたり地元福祉を応援していただき心から感謝いたします」と語る。

 堀さんは豊橋善意銀行で1984年から理事、2001年から副会長、13年からは副理事長として奉仕活動を続けた。日本善行会豊橋支部でも活動。愛市憲章実践者としてや防犯功労などでも表彰を受けた。また、豊橋みなとライオンズクラブでは設立当初からのチャーターメンバーとして活躍、今年6月まで在籍した。同じくチャーターメンバーの松谷英世さんは「面倒見が良く、真面目な男だった。クラブを立ち上げた時は一緒に苦労した」と振り返る。

 堀さんの病気が分かった時、家族内で店の存続についても話が出た。「父は店を継げなどとは言わない人。でもできれば続けてほしそうだった。自分も父の帰って来る場を守りたいと、みんなで店を続けることにした」と樋渡さん。堀さんが亡くなった後に一時休業したが、店を再開させた。自身は別の仕事に就いているため、火曜と水曜を定休日にして、営業時間を午後5時までに短縮。昼は従業員らに任せ、午後から店に入る。

 堀さんをよく知る常連客が足を運び、鉄板を囲んで堀さんの思い出話に花を咲かせている。「父をずっと支えて理解してくれた仲間たち、昔からのお客さんが今でも変わらず気にかけてくれ、応援してくれる。店も56年目。これからも皆さんに感謝しながら父の店を残していきたい」と樋渡さんは語る。

在りし日の堀さん
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田中博子

 愛知県豊橋市生まれ。大学卒業後、校閲記者として入社。1年後に報道記者に転身した。2020年から報道部長。芸術、福祉、経済・奉仕団体などを担当する。趣味は、かなりジャンルに偏りのある読書と音楽鑑賞。思考のそっくりな一人娘と趣味を共有している。

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