【連載】豊橋の百年を刻む〈51〉ペンキの一滴は血の一滴(黒柳塗装店)

2025/05/06 00:00(公開)
黒柳塗装店(豊橋市小向町北小向62)

 初代黒柳治三郎は見習い奉公が済んで、1925(大正14)年に現在の豊橋市の松葉公園北西角に店を構えた。

 

 ペンキ塗料がとても高価だったので大正時代の塗装は一般的には、木質に対しては防腐効果の高いコールタールによる黒塗りが多く、板壁だけではなくトタン屋根にも塗っていた。職人も増えていって治三郎は親方となった。その妻となったのは織物工場に勤めていた「おかね」である。当時は、おかねの織物工場の給料のほうが多い時代だった。そのせいなのか、治三郎は仕事が終わると、受け取った代金を持って帰宅前にお酒を飲んで、そのまま遊びに全部使ってしまうことがよくあったそうだ。

 

 跡取りとなったのは同業者だった静岡県富士市の塗装業中村家出身で、三人姉妹の次女愛子。養女として黒柳家に入った。裁縫学校の先生だった愛子はそのまま洋装店を営んで、お針子たちを何人も雇った。そこに二代目としてむこ入りした五男は、高師町出身で県豊橋中学校(現時習館高校)を卒業し、予科練から回天特攻隊として人間魚雷に乗る直前に終戦を迎えた。復員し豊橋郵便局勤務を経て、愛子と結婚した。

海軍に入った二代目の五男(手前右)

愛子の面倒見の良さは今も家族で語られており、近所の子どもたちを食べさせたり、当時珍しかったテレビを近所の人たちにも見せたりしていた。娘たちが通う松葉小学校にもテレビを寄贈している。

 

 五男も仕事が途切れて苦しいときでも職人を出勤させ、畑仕事や倉庫掃除で給料を払った。この面倒見の良さで、大勢の見習いが職人として独立。しかも、二代続けて黒柳塗装店で一人親方としてともに仕事をする職人たちが何人もいる。

 

 やがて、昭和40年頃に1階が洋装店、2階が私宅の鉄筋コンクリート造の愛子念願の自宅を建てた。塗装店は、隣の建物と洋装店地下を倉庫として使った。黒柳家は女系が続き、娘佳江のところにむこ入りしたのが中村光雄だった。

 

 光雄の実家は愛子の親戚筋で、こちらも塗装業としては歴史のある静岡県富士市の「株式会社中村塗装店」。光雄は「ペンキ屋を継ぎたくない」と弟に家を任せて大学へ入り、見聞を広める海外旅行をして大阪の「松下工業」に就職した。ところが、名古屋転勤となって佳江と出会うと、そのまま結婚。黒柳塗装店に入った。入社当初は「ペンキの一滴は血の一滴だ」と先輩職人に厳しく鍛えられ、そのお陰で光雄は材料も道具も大切に扱うことを若手に教えている。

 

 昭和40年代頃は、小中学校にプールが造られていった時代だった。そんなプールは、水槽が水色に塗られており、今でも見かける。プール専用塗料は、水を浸透させない強い耐水性を持ち、殺菌用の塩素で溶けないという塗料である。そのプール塗装を商材に「株式会社黒柳塗装店」として二代目五男とともに全国を歩いた。

 

 光雄の長女友理は、ボランティア組織「塗魂インターナショナル」でリトアニアにある「杉原千畝ハウス」を塗装し、駐リトアニア大使の重枝豊英氏から表彰された。

 

 現在の四代目代表取締役となる誠もむこ養子で、黒柳家の次女文恵と結婚した。前職とは全く畑違いの業界に入ることになり、3年間無我夢中で修業した。誠が黒柳塗装店を継いで思うことは、完成した現場がずっとそこに在り続けることだ。自分の仕事の成果が見えること、それが一番のやりがいである。社長として、時代に合わせて働き方改革をしっかりと進め、従業員の他に、長年仕事を請け負ってくれている一人親方たちとの連携を密にしている。仕事は外壁塗装やベランダや屋上の防水加工も手がける。公共工事では、2019年に豊橋市から優良事業者表彰を受けた。

駐リトアニア大使からの表彰状
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