豊橋市石巻西川町の東名高速道路脇に、樹木に囲まれた「西島」の本社がある。
広々としたエントランスの右側に、会社の創業を支えた二代目西島正雄の銅像がある。当時の従業員一同が正雄に寄贈したという。社屋は白で統一されて、発動機が展示されている。西島の発動機は当時の粗悪な油でも故障せずに動いた。その実績で戦前に日本一を獲得した。だからこそ世界にも選ばれる技術と品質を磨いてきた。現在は依頼主の特別注文に応じた専用工作機械を生産している。
現社長四代目西島豊は、2014(平成26)年に三代目篤師から社長を引き継いだ。その使命は、会社の技術と伝統を守ること。社員は家族と同じ。技術は当然のことながら、伝統を守るとは、社員を家族同様に大切にすること。三代にわたって会社のために働いている社員。初代から続く定年のない終身雇用制。1966年以来の建国記念日家族会。さらには新入社員歓迎登山50回目。折に触れ「一流の製品は一流の人格から」をモットーに人育てを心がける会社経営である。
豊にとって会社経営はナンバーワンのものづくりを目指すことである。工作技術は常に時代の先端をいくため、新たな視点、豊かな発想が求められる。顧客が求めるものも多種多様である。時代の空気を読み、新技術を取り入れ、他社にないものを開発して自社の製品として生み出す。そのときに一番重要なことは、客の要望と思いに寄り添うことだった。そして「西島」はそれを初代からずっと続けてきたのである。
初代西島吉三郎は、東京で刀鍛冶の技術から発動機を作っていた友野鉄工所で働いていた。住まいは渋谷。二代目正雄もそこで生まれた。やがて父子はのれん分けをしてもらい、三重県鳥羽市で西島鐵工所を創業。1924年のことである。営業先は伊勢湾を越え、渥美半島や伊勢湾に点在する離島へと農機具や漁船の発動機を売り込んだ。
仕事は順調に進み、1934(昭和9)年に豊橋市牟呂町桶口下に新工場をつくり、本社を移転した。日本の経済圏が旧満州(現中国東北部)や南洋諸島、東南アジアに広がり、戦争特需となった時期である。豊川海軍工廠(こうしょう)にも各種工具類が納められた。
戦争が終結する直前、1945(昭和20)年6月6日吉三郎が亡くなり、正雄が二代目となったが、日本中どこにも物資がなく休業が続いた。その2カ月後の8月15日に終戦を迎え、農機具や漁船用の発動機製造を再開した。そのときに豊橋工倶西島鐵工所と社名を改めた。
戦後の経済成長に伴い、正雄とともに三代目となる息子篤師は、旋盤を始めとして昭和40年には西島独自の数値制御(NC)装置を開発した。篤師はドイツにも足を運んだ。工業技術の優れたドイツはまだ東西に分かれていたが、東ドイツに出かけていって、自社の製品づくりのために大型工作機械を輸入した。これによりドイツのマイスター魂の技術を、自社の技術に反映させ、会社として成長したのである。1986(昭和61)年には豊橋市東脇に新本社工場を建設し、CAD/CAMシステムを導入した。
「西島」にとって会社の名称変更は、時代への会社としての対応の表れである。1995(平成7)年、二代目正雄から三代目篤師が代表となり、98年に「西島株式会社」と社名変更した。このときも新型超硬丸鋸切断機を開発し、国内外に拡販している。
2025年、創業101年目を迎え、豊は一からのスタートの年と決意を新たに、社内改革に手を付けた。創業の頃に思いをはせて、ホテル任せの宴会から社員一同自らの手作りで、恒例の家族会と新入社員歓迎会を準備運営した。先代からの業績におごることなく、謙虚に社員に感謝し、客に寄り添い、新たなものづくりに挑戦しようとしている。
購読残数: / 本
週間ランキング
全三河高校野球大会で豊橋西が初優勝 持田侑が4安打完封 6年連続で豊橋公園「納涼まつり」(夜店)中止、代替場所の準備間に合わず 【マケイン】豊川堂がイオンモール豊川内の聖地巡礼マップを配布 【法定ビラ問題】長坂市長、「私文書」で緊急記者会見し第三者委員会設立指示 大リーグが日本人選手のマンホールふた 蒲郡は千賀滉大投手 【豊橋新アリーナ】市武道館の再整備問題 長坂市長「契約解除後に検討」 一般質問質疑で対案示さず 【三遠ネオフェニックス】太田敦也選手ら豊川市長に今季の成績報告 「徐々にチーム浸透うれしい」 【豊橋新アリーナ】「財政負担への影響は限定的」 豊橋市議会一般質問で 夜の「豊橋歩行者天国」初開催 市が6月21日に開催 【連載】豊橋の百年を刻む〈52〉一流の製品は一流の人格から(西島株式会社)日付で探す