豊川市にあった「豊川海軍工廠(こうしょう)」の空襲から、今月7日で80周年を迎える。身近な戦争を知ることが、戦争の予防意識を高める一方、80年という歳月は、身近な戦争体験の伝承を困難とする。
今回は、東三河で被害の大きかった豊橋市街と豊川海軍工廠の空襲について、国際法の観点から顧みる。この記事が、平和への一助となれば幸いである。
1941年の真珠湾攻撃を皮切りに、日本は第二次世界大戦に参戦し、アジア、太平洋地域において軍事行動を展開した。しかし、徐々に劣勢となり、44年末から、サイパンを起点とした米陸軍航空軍の戦略爆撃機B29による日本本土空襲が始まる。
当初、指揮をとったヘイウッド・ハンセルは日中の高高度精密爆撃を基軸とした。同年12月には、東京の中島飛行機や名古屋のバンテリンドームナゴヤ付近にあった三菱重工業といった、戦闘機製造にかかわる工場を空襲した。
一方、天候などの影響で命中率が低かったことで、翌年1月には司令官をカーチス・ルメイに交代=表1=した。
ルメイは低高度焼夷(しょうい)弾爆撃へと方針を変更した。迎撃を避けるため、夜間の空襲が主となっていた。「戦争終結を早める」との大義の下、焼夷弾で町中を焼き尽くす焦土作戦を展開した。
まずは3月に東京や名古屋、大阪などの主要都市が、4~5月には鹿児島や横浜などの軍事都市が、6~8月には多くの中小都市が空襲の対象となった。
こうした米国の軍事戦略の中、豊橋は6月19日深夜から翌日未明にかけて、空襲を受けた。確かに豊橋は陸海軍の施設も多く、「軍都」と呼ばれる都市であった。
一方、空襲は軍事施設にとどまらず、市役所や豊橋駅、日清・日露戦争時に捕虜収容所とされた龍拈寺や悟真寺も破壊し、市街地の約70%を焼失させた。
豊橋空襲による死者は、624人とされる。そのほか、避難先の新川国民学校では赤痢により、385人が亡くなったと別途記録されており、今日にいう災害関連死を含めれば、より多くの犠牲者がいたものと推測される。
これらの統計値には、単なる数値でない、家族友人が不条理に亡くなるおびただしい数の悲しみが含まれる。
豊川海軍工廠が空襲を受けたのは、終戦間際の8月7日午前10時半頃=表2=であった。豊川海軍工廠は、機銃や弾丸を製造する海軍直轄の工場である。東洋一と称される規模で、最大5万人以上が動員されていた。そしてその中には、15歳前後で女子挺身隊として労働に従事していた、現在の豊川高校や時習館高校の女学生も多く含まれていた。
約30分の空襲で、動員学徒452人を含む2521人が命を落としたことが、犠牲者名簿に記されている。足がちぎれ、頭の飛んだ人々が、体を寄せあって死んでいたとされる。豊橋と豊川双方の空襲を経験した人の体験記も残されている。
現在は、1977年の「ジュネーヴ諸条約第1追加議定書」により、文民と民用物を標的とした攻撃を禁止する「軍事目標主義」が確立している(51条4項,52条)。一定の付随的な損害は許容されるが、軍事的利益に比して過度な文民の巻き添えをもたらす攻撃は禁止される(比例性原則、51条5項)。
同時に、防守側も文民と民用物を軍事目標から遠ざける努力義務を負う(58条)。文民は敵対行為に直接参加すると保護資格を失うが(51条3項)、軍事工場での勤務は敵対行為への直接の参加とはみなされない。
一方、第二次世界大戦時は、どの程度軍事目標主義が確立していたかが、明確ではない。1907年の「ハーグ陸戦規則」によると、敵軍による占領に抵抗しない旨を宣言している「無防守都市」に対する攻撃は禁止されていたが(25条)、この宣言をした日本の都市はない。ただし、米国も防守都市であれば無差別爆撃が認められるとの見解は示していない。
また、軍事的必要性のない敵財産の破壊は、当時から禁止されていた(23条ト)。軍事的必要性は、戦争目的を達成するために必要なことをいう。
当時、戦争目的は「敵軍事力の弱体化」であるとされ、今日では総力戦等を加味し、「敵の服従」であるとされる。ここでいう服従は、戦争法に従って、時間、生命、金銭の損失が最も少ない方法で服従させることを意味し、服従させるためには何をしてもよいということではない。
以上を簡潔にまとめると、費用対効果の観点から合理的であれば、戦争法に違反しない範囲で敵財産の破壊が許容されるといえる。
東京や名古屋は、民間軍事工場の軍需品製造を自宅でもでき、家内工業が確認されている。それに対し、豊橋は海軍直轄の豊川海軍工廠での労働に従事した人が多くいる一方で、家内工業が行われていたかは、記録が乏しく明確ではない。
米軍の空爆による街全体の破壊(目標区域爆撃)は、市街に点在する家内工業と付随的損害を根拠に正当化が図られることがあるが、豊橋についてはその正当化は困難に思われる。なお、そもそも目標区域爆撃自体が、比例性原則に反するため違法であったとの見解も根強い。
豊川は、海軍工廠自体が軍事目標だった。一見すると、そこで勤務していた文民被害は現在の厳格な国際法に照らしても、付随的損害として許容されるようにも思われる。比例性原則の具体的基準は不明確であるが、工廠破壊の軍事的利益は大きい。
ただし、空爆が日中だったことは、軍事的必要性を欠いた違法な攻撃であったことを示唆する。豊川の大恩寺山などには高角砲が設置されており、実際にB29爆撃機125機中21機が損害を受けたとされる。自軍の生命や金銭の損失を少なくするためには、夜間攻撃の方が合理的で、軍事的必要性に適うとルメイは考えていたはずである。
それでもあえて日中に空爆をしたことは、工廠自体の破壊ではなく、多くの労働者の殺害が目的であった可能性を推測させる。8月の段階では敵軍事力の弱体化よりも、政治的、心理的な終戦圧力のために中小都市の空爆が展開されていたとされる。
終戦は尊いが、戦争法に違反するかたちで実現させることは正当化されない。
日本がポツダム宣言を速やかに受諾していれば、豊川海軍工廠や広島、長崎の原爆被害、ソ連による北方領土の占領などは、防げたかもしれない。
ただし、どれだけの人的、物的被害を出そうとも、自国に不利な条件で戦争をやめられないのは、今日のウクライナやハマスも同様である。天皇制の国体護持への懸念があった中、政府や軍部のみに対する一面的な批判は、適切ではないように思われる。
戦争は始めるのは容易でも、終わらせるのは極めて難しい。そのため、より大切なのは、戦争の悲惨さを十分に認識し、戦争を始めないことである。
日本が侵略をすることはないと信じているが、侵略を受ける可能性はある。その可能性を抑えるためには、「防衛力(ハードパワー)」の強化だけに頼るのではなく、外交や民間交流(ソフトパワー)を通じた諸外国との良好な関係の構築も重要である。
政府だけに責任を押し付けるのではなく、外国人にやさしいまちづくりや相互の文化の尊重、経営協力など、企業1社1社、個人一人ひとりによる平和の維持を意識した行動が求められよう。
尋木真也(たずのき・しんや)
熊本県出身。2005年3月、早稲田大学政治経済学部政治学科卒。08年3月に早大院法学研究科修士課程を修了。15年4月、愛知学院大学法学部の専任講師。20年2月から現職。専門は国際法と国際人道法、安全保障法
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