【連載】祈りの火を絶やさぬために㊦ 豊橋まつりと市長の責務

2025/06/24 00:00(公開)
豊橋まつりのルーツ「招魂祭」

 長坂市長は「豊橋まつり振興会」の会長職を辞め、名誉会長として直接運営に関わらない方針を示しました。まつりが戦後間もなく始まった宗教儀礼を起源とし、政教分離に配慮したものとみられます。一方で社会的儀礼を踏まえた範囲なら政教分離に当たらないとする判例もあります。「NPO吉田城復元築城をめざす会」理事の古山由晴さんが、豊橋まつりのルーツとそこに込めた思いを歴史的背景とともに紹介します。

 

 もちろん、公人としての憲法上の立場に配慮することは必要です。しかし、その慎重さが過度に振れたとき、それは行政と地域文化との精神的な断絶を生むおそれがあります。1977年の最高裁判決(津地鎮祭訴訟)では、宗教的形式を含む行事であっても、それが慣習や社会的儀礼の範囲で行われる限り、政教分離にはあたらないと明確に示されています。地域のまつりは、祈りと感謝、そして共同体の連帯を表す文化的営みです。そうした場に首長が関わることは、法的にも文化的にも、むしろあるべき姿だと私は考えます。

 

 私は子の親として、また自治会や商工会議所青年部の一員として豊橋まつりに関わり、さらに若くして戦地に散った英霊のおいとして、このまつりを長年見つめてまいりました。筆を執るのは、このまつりが単なる娯楽やイベントではなく、地域の「記憶」と「祈り」の積み重ねであり、私たちが次代に引き継ぐべき精神的な営みであると確信しているからです。

 

 その原点は1953年に実施された「東三河招魂祭」にあります。GHQ占領下で慰霊行為が制限される中、豊橋公園に社殿を仮設し、約8000柱の戦没者をまつりました。6000人を超える遺族が参列し、涙とともに手を合わせたこの行事は、まちの再生の第一歩であり、魂のよりどころでした。

 

 当初、この招魂祭と同時に「第1回豊橋まつり」の開催も予定されていましたが、台風により中止を余儀なくされました。翌年、再び招魂祭とあわせて豊橋まつりが開催され、手筒花火、仮装行列、民謡大会などが「奉納行事」として実施されました。これが現代に続く、豊橋まつりの原点です。

 

 まつりの創設に尽くした故井上正則氏は、その著書「祭りに燃えた男―東三河招魂祭・豊橋まつり秘話」(豊橋まつりのルーツを尋ねる会)の中で次のように記しています。

 

 「豊橋まつりの原点は招魂祭にある―それが忘れられていくのは淋しい限りだ」と。その言葉は、まつりの本質を静かに、しかし力強く伝えています。

 

 まつりをつないできたのは、形式ではなく人々の「思い」です。市長とは、その思いを象徴する存在であるべきです。形式や批判を恐れて距離を取るのではなく、地域とともに祈りを分かち合い、文化と精神の担い手としての責任を果たしてほしいと願います。

 

 名誉会長というかたちで関与が残されたことは、ひとつの着地点かもしれません。しかし「それでよし」とせず、豊橋まつりの原点に立ち返り、地域と行政がどう手を取り合うかを問い直す機会にすべきと心から思います。

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古山由晴(ふるやま・よしはる)

NPO吉田城復元築城をめざす会理事。自民党愛知政治大学院11期修了。防災士。とよはし防災リーダー。

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