今年、第二次世界大戦の終結から80年の節目を迎える。同時に、日清戦争終結から130年、日露戦争終結から120年の年でもある。この終戦の節目の年に、ウクライナやガザの戦争の終息も願いたい。
今回は現在の戦争への教訓として、国際法の観点から、豊橋における日清・日露戦争時の捕虜の待遇を振り返る。
幕末の1858年夏の約1カ月の間に、日本は「日米修好通商条約」を含む「安政の5カ国条約」を、米、蘭、露、英、仏と締結した。
これらの条約は「領事裁判権の容認」「関税自主権の欠如」「片務的最恵国待遇」を含む不平等条約であった。これを改正するため、日本は「文明国」化を強く志向することとなる。
対等な条約は、文明国間でのみ締結できると考えられていたためである。1875年の福沢諭吉の「文明論之概略」も、こうした考えの下支えとなっている。
欧米と肩を並べるため、和魂洋才(わこんようさい)の精神のもと、明治期には文明開化の社会変革が次々と実践された。
明治時代に建てられた西洋館「鹿鳴館(ろくめいかん)」の舞踏会や、断髪令によるちょんまげ廃止のような象徴的な西欧化だけでなく、殖産興業による軍事、経済力の拡大や、大日本帝国憲法による立憲君主制の導入など実質的な改革も断行されている。
こうした一連の努力を経て、列強に日本の文明国化を印象づけることになるのが、日清・日露戦争である。
条約などの国際法の順守能力を備えるのが、文明国である。日本は、なかでも違反の生じやすい戦争法の順守能力の顕示に努めた。
日本は、1886年に「ジュネーヴ傷病兵保護条約」=表1=に加入した。条約は敵味方問わず、傷病兵の治療を義務づけている。条約の理念や義務を実現するため、87年には博愛社を改組した日本赤十字社が設立された。
NHKで2013年に放映された大河ドラマ「八重の桜」では、日本赤十字社の社員となった新島八重が、市民の反感を買いつつも、敵国兵を献身的に看護する姿が描かれている。
他方で、捕虜の待遇については、日清戦争時にはまだ明文化された条約がなく、慣習法のルールに従うことが求められた。
19世紀後半は、戦争法の慣習法が法典化される過程=表2=に位置する。米国の南北戦争時の軍律である1863年の「リーバー法典」に触発され、戦争法の一般条約となる「ブリュッセル宣言案」が、ロシア主導で74年に起草された。
最終的に条約化には至らなかったが、80年に万国国際法学会が、同宣言案を精緻化した「オックスフォード・マニュアル」を作成した。これらは、いずれも国際法としての効力を有するものではないが、捕虜規則を含む慣習法を明文化した文書として参照され、その後、99年に「ハーグ陸戦規則」として結実することになる。
ハーグ陸戦規則には、捕虜は捕らえた個人や軍ではなく、政府の権限の下におかれること(4条)▽将校以外の捕虜を、軍事行動に関係しない一定の労働力とできること(6条)▽自国軍と同等の衣食住を提供すること(7条)▽捕虜情報局の設置(14条)▽捕虜救済団体の人道的アクセス(15条)▽将校への給与と事後償還(17条)▽捕虜の礼拝の自由(18条)▽戦後の捕虜の速やかな返還(20条)-などが規定されている。
日本は日清戦争を「文野の戦争」(文明国対野蛮国の戦争)と位置づけ、ジュネーヴ条約などを誠実に順守した。当時、清国は条約を批准していなかったため、相互主義に基づき、日本は清国人を治療する法的義務は負っていなかった。
一方、赤十字の人道の理念と文明国化戦略を背景に、日本は法的義務を超えて清国人の治療にあたったとされる。捕虜についても、慣習法のルールを94年に「俘虜取扱規程」として国内法化し、食事や入浴等に配慮した。
日清戦争時は豊橋、名古屋を含む国内9カ所の捕虜収容所が設置された。豊橋は100人の捕虜が移送され、豊橋公園の南に位置する龍拈寺に収容された。多くの群衆の見世物となり、清国人捕虜を蔑視する者もいたが、博愛の精神が重視され、大きなトラブルはなかったとされる。
軍による待遇も、清国人の髪型「辮髪(べんぱつ)」が切られはしたが、適切な衣食住や労働賃金が提供された。赤十字職員が専属で負傷した捕虜の治療に当たったのは東京、大阪、名古屋以外では豊橋だけだった。
日露戦争時、日本は「文明国同士の戦争」と豪語した。双方が戦争法順守を重視し、捕虜情報局を通じた待遇の調整なども繰り返された。
ロシア人捕虜は約8万人に及び、国内21カ所の捕虜収容所が設置された。戦争期の松山は、司馬遼太郎の「坂の上の雲」でも注目されるが、道後温泉の入浴許可などの捕虜の厚遇でも知られている。
豊橋では将校40人、従卒40人、下士卒800人の捕虜が受け入れられた。収容先は将校、従卒には豊橋公園の西に位置する悟真寺が、下士卒には休業中だった高師緑地公園付近の豊橋米麦取引所の建物が充てられた。
上記のハーグ陸戦規則が参照され、広範囲な自由散歩、日本軍以上に優遇された衣食住、遊郭や芝居の娯楽まで認められていた。松山に劣らない待遇であったと評価できる。
ウクライナ戦争ではロシアだけでなく、ウクライナによる捕虜の虐待も多く報道されている。相互に敵愾心(てきがいしん)があおられ、戦況悪化の一因ともなっている。
現在の戦争と日清・日露戦争の捕虜の待遇は、期間▽戦地の有無▽近親者殺害の多さ▽戦争法順守のインセンティブ-など多くの面で異なるため、単純に比較することはできない。ただし、多くの示唆は得られる。
たとえば、19世紀の戦争法の多くはロシア主導で作成され、順守されている。ペリーに比して穏健なプチャーチンの外交や、ニコライ皇太子暗殺未遂事件(大津事件)における寛大な姿勢など、日本との関係においても、ロシアには平和愛好的な姿勢が多くみられる。現在のロシアとの連続性を考える中で、日露戦争もロシアやロシア人の評価の一端を担い得よう。
一方で、日本では1949年の「ジュネーヴ第3条約(捕虜条約)」の国内実施法として、2004年に「捕虜取扱法」が制定された。細則を覚えるのは困難であるが、市民として重要なのは、「捕虜は犯罪者ではなく、戦争犠牲者として保護すべき対象である」との認識である。
適切な捕虜の待遇は、とりわけ戦後にまで視野を広げると、極めて重要となる。平和な今こそ、少しずつでも正しい戦争のルールを学んでもらいたい。
尋木真也(たずのき・しんや)
熊本県出身。2005年3月、早稲田大学政治経済学部政治学科卒。08年3月に早大院法学研究科修士課程を修了。15年4月、愛知学院大学法学部の専任講師。20年2月から現職。専門は国際法と国際人道法、安全保障法
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