「バババババー」。終戦間際の1945年8月7日午前10時過ぎ、東洋一の兵器工場と呼ばれた豊川海軍工廠(こうしょう)をめがけて、低空飛行の米軍機が機銃掃射した。たった26分間の攻撃で、豊橋市の寺田華徑さん(95)は、大勢の同級生や恩師を失った。あの日の悲惨な光景や爆発音は、80年たった今も脳裏に焼き付いている。
43年に14歳の寺田さんは学徒動員で海軍工廠に勤めるようになった。満員の飯田線に揺られ通勤していたが、やがて寮生活を始めた。配属された火工部では、機銃弾の先端を検査する作業をしていた。長さが基準に合うかを一つずつ確かめる。油まみれになり、ばい菌が入って手の先が腫れた。「痛くて痛くてたまらなかった」と言うが、それでもやるしかなかった。
あの日、サイレンが鳴り響き、防空壕に逃げた。壕の中は人であふれ、すし詰め状態。息苦しさと熱気で押し潰されそうになった。しばらくすると「ゴーゴー」という爆音ともに壕が爆破され、必死に外に飛び出した。真夏の炎天下で履物は破れ、自分がどこにいるのかも分からず、泣きながら走り続けた。手が届きそうなほど低空飛行の米軍機に次々と撃たれ、同級生や教諭が死んだ。ふと視線を上げると、首のない遺体が電線にぶら下がっていた。「うそみたいでしょ」と寺田さんは声を震わせる。その道中で見知らぬ男性が畑からそっと顔をさして、「食べなよ」と真っ赤なトマトを差し出してくれた。「ありがとう」と言ってトマトを持って走った。「その優しさで涙が出た。トマトの甘さが忘れられない」と回想する。
家族の安否を心配していると、その日の夕方、土ぼこりにまみれた自転車が寺田さんの前に現れた。「父だ」。寺田さんの顔がほころぶ。顔も服も汗と泥で濡れ、必死にペダルをこいで来た父は、娘を見つけると「生きてて良かったな」と声をかけた。張りつめていたものが一気に崩れ落ちた。
戦後、日本は豊かになった。寺田さんは「今の人は殿様よりぜいたくだ」と話す。戦争を生き延びたからこそ、平和のありがたさを痛感していた。寺田さんは亡くなった仲間を思い浮かべながら最後にポツリを言った。「あと数日終戦が早ければ、戦争を始めなければこんなことにはならなかった」(おわり)
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1998年浜松市生まれ。昔からの夢だった新聞記者の夢を叶えるために、2023年に入社した。同年からスポーツと警察を担当。最近は高校野球で泥だらけの球児を追いかけている。雨森たきびさん(作家)や佐野妙さん(漫画家)らを取り上げた「東三河のサブカルチャー」の連載を企画した。読者の皆さんがあっと驚くような記事を書けるように日々奮闘している。趣味はプロ野球観戦で大の中日ファン。
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