バスケットボール元日本代表で、6月に18年間の現役生活を終えた元「三遠ネオフェニックス」の太田敦也さん(41)が東愛知新聞のインタビューに応じた。フェニックス一筋。長身を生かした献身的なプレーでチームを支えた。ユニフォームを脱ぎ、現在はクラブの運営会社フェニックスのフロント社員として三遠地域を走り回る。思い出も交え、第二の人生を歩む太田さんの心境を聞いた。
―引退を意識したのはいつ頃ですか。
◆ここ2~3年は頭の片隅に「引退」の二文字が見え隠れしました。外国籍選手のレベルが高まる中、相手選手とのマッチアップも厳しいと感じることが増えました。体の切れがなく、思うように反応できない場面も増えました。若い頃は連戦でも1日休めば回復しました。でも現役晩年は第2戦が本当にしんどくて。相手の動きに反応しなければならない状況で、半歩遅れる感覚がありました。
―出場機会に恵まれない悔しさの中、心掛けていたことは。
◆試合に出てこそ、と思っていました。「まだチャンスがあるかもしれない」と思い、常に準備は万全に臨みました。
―引退の決意は家族にも相談しましたか。
◆妻には相談しました。「自分がやることなのだから、決断は自分でしなさい」と助言されました。そこで覚悟を決めましたね。「ぼちぼち引退かな」と。
実業団時代を含めてプロ契約選手ではありませんでした。親会社「オーエスジー」の社員だったので、他チームへ移籍すれば退職することになります。会社員として、その選択肢はあり得ませんでした。出身地のクラブで、愛着のある三遠以外でのプレーには違和感がありましたね。
―実業団やbjリーグ時代の恩師、中村和雄元監督とは引退間際に連絡をとったのですか。
◆引退発表前に「引退することにしました」と電話しました。それを聞いて「そうか。よく頑張ったな。お疲れさん」と声を掛けられました。今後の人生も応援してくれるようで、連絡してよかったと思っています。
―チームメートの反応はどうでしたか。
◆「辞めるんですか」とか、中には「ようやくですか」といじる選手もいましたね。冗談でもそういう形で送り出してくれるのはありがたいですね。大野篤史ヘッドコーチからも「お疲れさま」とねぎらいの言葉をもらいました。引退後の担当業務を教えたら「次はしっかり稼いできてくれよな」と笑顔でした。
(つづく)
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1998年浜松市生まれ。昔からの夢だった新聞記者の夢を叶えるために、2023年に入社した。同年からスポーツと警察を担当。最近は高校野球で泥だらけの球児を追いかけている。雨森たきびさん(作家)や佐野妙さん(漫画家)らを取り上げた「東三河のサブカルチャー」の連載を企画した。読者の皆さんがあっと驚くような記事を書けるように日々奮闘している。趣味はプロ野球観戦で大の中日ファン。
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