【連載】豊橋の百年を刻む〈54〉 絹産業へ繭玉の供給続ける|繭糸問屋 不破商店

2025/10/07 00:00(公開)
不破商店。年代物の看板がかかる=豊橋市東小田原町119

 初代となる不破智蔵は渥美出身で1905(明治38)年生まれ。尋常小学校を終えて、1915(大正4)年に奉公に出た繭糸問屋小柳津商店で番頭まで務めた。

 

 1928(昭和3)年に独立して、漢字に「ヘ」という山を二つ重ね、下に「ト」を入れた屋号「いりやま」と不破商店を開業した。取引先は養蚕が盛んだった九州が多かった。養蚕だけではなく製糸業も繁栄した豊橋市が群馬県に次いで集積地となったときに、多くの糸卸問屋が市内で商売をしていた。そして、地域の繭糸業団体の一員として、不破商店は伊勢神宮神御衣御料所(かんみそごりょうしょ)に生糸を献上する役目を担った。二代目隆夫は3歳の時からその献糸に正装して同行した。

 

 伊勢神宮への献糸は、三河産蚕による赤引糸で作るしきたりとなっている。これは、神武天皇の御代から始まった儀式であり、応仁の乱の始まった1467年に途絶えたものの、歴史を知る郷土の偉人古橋源六郎暉皃(ふるはし・げんろくろうてるのり)が1901(明治15)年に養蚕業の育成とともに復活させた。

 

 田原市にある伊勢神宮神御衣御料所で、献糸儀式は今年も6月26日に行われた。伊勢神宮の神御衣祭で神衣の材料となる絹糸を「繰糸始め」をして生糸(絹糸の前段階の糸)を作り、「お糸船」に仕立てたフェリーに乗せて伊勢神宮に奉納する。現在不破商店では、そのために日本で一番良質な繭の作れる新城の養蚕農家から繭玉を納品してもらい、それを日本で数社となってしまった製糸工場に依頼して奉納生糸にし、御料所に納めている。これは豊橋でも繭糸問屋としてたった1社になってしまった不破商店の大切な役目である。

 

 元々の三河養蚕業の育成立役者は古橋源六郎暉皃という。室町時代後期から途絶えていた三河地方からの伊勢神宮献糸のために、自分の故郷旧稲武町に養蚕業を育てることにして、愛知県の勧業係の協力も得て、明治8年、暉皃は12箇村に桑苗を各戸に25株ずつ配布して養蚕を奨励した。これが三河地方一帯に養蚕業が拡大したきっかけとなった。

田原市福江町の「お糸神社」

 さらにもう一人、養蚕業から生糸生産もできる製糸業を盛んにさせた偉人が、明治12年に豊橋にやってきた。群馬県出身の小渕志ちという女性である。二川に立ち寄ったときに志ちは、地元の女性たちに糸繰り技術を教えた。くず物扱いされていた蚕が2匹入った玉繭から、節があっても糸を引くことができ、豊橋独自の玉繭生糸製糸業が興隆した。製糸工場の女工になると、食事付きで読み書きそろばんも習えて、戦前までは女性の憧れの職業だったそうだ。 

 

 繭玉を育てて売るだけだった農家の人たちも、志ちによる糸繰り技術のおかげで生糸の生産もできるようになり、三河地方が生糸生産の大産地となった。すると群馬県に並んで豊橋はその生糸集積地となった。

 

 三代目不破良彰の話によると、蚕都とも言われた豊橋だったが、戦後、農家で害虫駆除に農薬を使うようになると、桑の葉にその農薬が風で流れて付着し、それを食べた蚕が育たなくなってしまったという。桑の木と養蚕の生産地が減っていき、東三河地方は新城だけになってしまった。そこに、1950年代頃から糸卸業界に化学繊維の普及が始まり、養蚕業の衰退につながってしまったのである。加えて、化粧品に繭玉の絹を使うという販路拡大も、絹糸産業を圧迫している。

 

 そんな中で不破商店としては、着物や洋服などに使われる絹織物用糸の需要と供給に応じるため、日本全国どころか海外にも絹糸の調達に奔走した。そして、これからも国産生糸の生産者とともに繭玉の供給を確保し、伊勢神宮に奉納を続ける覚悟で繭糸問屋を続けている。

昔から使ってきたはかり
続きを読む

購読残数: / 本

この記事は登録会員限定です
この記事は有料購読者限定記事です。
別途お申し込みをお勧めします。
最新記事

日付で探す

住まいLOVE不動産 藤城建設 蒲郡信用金庫 虹の森 光生会 さわらび会
hadato 肌を知る。キレイが分かる。 豊橋法律事務所 ザ・スタイルディクショナリー 全国郷土紙連合 穂の国