豊橋の白谷さんがシベリア抑留など自分史出版

2022/08/10 00:00(公開)
自分史を著した白谷さん=豊橋市栄町の自宅で
自分史を著した白谷さん=豊橋市栄町の自宅で
豊橋市栄町の白谷茂さん(97)が自分史「荒れ庭に向かいて」を出した。大正、昭和、平成、令和の物語だが、自身の戦争体験に紙幅を割いた。ロシアによるウクライナ侵攻は今も続く。「戦争は悲惨だ、やってはいけないということを知ってもらいたい」と話す。
 本書は、戦前、戦中、戦後の豊橋市など東三河での生活と、別冊として「シベリア抑留の記『希望と絶望』」で構成している。後者は4年前に書き上げていたものを今回、改めて活字化した。市立図書館や市教育委員会にも寄贈している。
 1925(大正14)年5月、豊橋市広小路2で生まれる。完成したばかりの狭間尋常小学校で学び、豊橋商業学校へ進学した。軍事教練を受けながら中国語を1年学び、43年4月に「日満商事」に入社した。国内採用枠がいっぱいだったため、18歳で旧満州の首都、新京特別市へ渡り、現地採用手続きを済ませたという。
 45年3月、現地で応召。家族は豊橋に残っており、会社の寮の仲間のみが見送った。配属先は20㍉機関砲4門を備えた独立中隊で、奉天郊外でソ連軍に備えて陣地を張った。内務班の暴力の凄まじさも書かれている。
 8月9日、ソ連軍が侵攻開始。運良く、白谷さんの部隊は交戦することなく終戦を迎える。部隊は秋に投降し、全員が抑留された。貨車でカザフスタン南部の収容所に入った。
 零下30度の屋外作業は「刃物で刺されるようだった」と振り返る。完全なノルマ制で、達成できないと乏しい食事がまた削られる。そして戦友が死ぬたび、土まんじゅうが増える。
 48年7月にようやく帰国の知らせ。9月に復員したが、息子を待ち続けていた母は亡くなった後だった。
 戦後77年、今も戦争が続く。白谷さんは「ホームステイでも留学でもいい。若いうちから外国の人と知り合いになってほしい。相手を知ることで戦争が防げるのではないか」と話した。
 抑留記以外は、昭和初期の豊橋の繁華街の描写、復員後の東海銀行での勤務の様子なども興味深い。「希望が多ければ増刷したい」と話している。
【山田一晶】
荒れ庭に向かいて
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