千貫櫓台に「埋め殺し」の石垣 豊橋の吉田城址

2022/10/19 00:02(公開)
左右に並ぶように露出した新旧の石垣跡。右が「埋め殺し」された石=吉田城跡で
左右に並ぶように露出した新旧の石垣跡。右が「埋め殺し」された石=吉田城跡で
 豊橋市文化財研究センターは18日、市史跡「吉田城址」の「千貫櫓(せんがんやぐら)」の土台となる石垣修復に伴う発掘調査で、崩落部の内側から古い時代の築石が見かったと発表した。古い築石を覆い隠すように新たな石垣を築く「埋め殺し」という手法で、江戸中期以降のものとみられる。
 本丸南西の櫓台は、東西約18㍍、南北約15・8㍍、高さ約4・5㍍あり、城跡内の櫓台として最大面積を誇る。石材などから18世紀以降に築かれたとみている。明治時代以降に櫓台上に生育した樹木や、昨年5月中旬の大雨などが影響して崩落した。
 センターによると昨年崩れた石垣の内側に、それ以前に築いた石垣の一部が残されていた。石垣の建築技法や出土品などから、内側の石垣は安土桃山~江戸時代初期のものと考えている。
 現在の櫓台の内側に埋まっていた石垣は、東面の長さ6・2㍍と高さ1・2㍍、南面は長さ2・3㍍と高さ2・5㍍とみられる。
 古い石垣は下部が残された状態で、内部を埋めていた「裏込め石」も確認した。池田輝政や松平忠利の代で築かれたとみられる本丸南側の堀の高石垣と同じ材料で、立地から先代の石垣と同時期に一体整備したとも考えられるという。
 北端部は外側へ蛇行するようにして途切れ、崩落の要因にもなる「孕(はらみ)出し」と呼ばれる状態だったことも分かった。櫓台の荷重や内部からの圧力でせり出したとみられる。
 「埋め殺し」と呼ばれる手法は当初、城主交替で権力の象徴の一つでもある石垣を埋める意味合いが強かったという。豊臣氏に替わり、徳川氏が治めた駿府城はこの理由で「埋め殺し」を施したとされる。一方、吉田城跡は崩落箇所を隠す技法と考えられている。
 中川永学芸員は「城主まで絞れないが、堀の高石垣と並んで本丸南側を一体整備した可能性も有力になった」と歴史的意義を説いた。
【加藤広宣】
崩落後にあらわになった石垣断面(東側から撮影、提供)
崩落後にあらわになった石垣断面(東側から撮影、提供)
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